Top Page CATBIRD挨拶  第一部光速度不変の原理  第二部ニュートン力学  第三部超ひも理論  第四部電磁気力  第五部一般相対性理論  第六部精神の力  第七部神の力  第八部波動一元論

CATBIRDの波動一元論

私の思考を詩(うた)にしました。ご鑑賞くだされば幸いです。

T.哲学のテーマ

 哲学の未解決な根本問題は、「@目の前にある物は、本当に存在しているか。(存在論)」「Aどうして、人は外界の物を認識出来るのか。(認識論)」「Bその様に思考している私は誰か。(汝自身を知れ)」の3つです。本HPでは、この哲学分野の未解決問題を思考して行きます。

 先ず、本HPの要旨を概説しておきます。
 唯物論は物質(外界)しかないとし、唯心論は「感じ(内界)」しかないとします。一方デカルトは、物質と精神の二つがあるとし、「二元論」を提唱しました。これに対する、CATBIRDの思考を説明します。

 @私は内界にある物を感じており、外界にある物を直接感じている訳ではありません。したがって、私が感じたからと言って、物が外界にあるとは限りません。
 しかし、私の心が「1+1=2」に制約されている事実は、心の中の「内界」が「外界」に出来る限り似せて作られていることを証明しています。したがって、私は外界に物があると信じます。

 A外界にある物に対応する「イデア(理解そのもの)」を想起することにより、我々は物を認識することが出来ます。しかし、我々は「イデア」である「理解そのもの」を、別の何かから作り出すことは出来ません。
「イデア」は元々精神世界にあり、それが我々の心の鏡に映し出されたとしか言い様がありません。精神世界全体が「包括者(神)」であり、「イデア」は包括者から不断に流出します。
 ※例えば、円い物を見て、「円のイデア」を想起します。そうして、我々はその物が「円形」であることを理解します。私はこの「円の理解そのもの」を、別の何かから作り出すことは出来ません。「円のイデア」は元々包括者の中にあり、それが私の心に映し出されたとしか言えません。

 B包括者の「イデア」が映し出された「鏡」が私です。ですから、私は包括者の一部です。
 つまり、「イデア」を感じている精神が私であり、脳と言う物質が私なのではありません。外界からの情報が脳に伝わり、それを受けて脳を構成する粒子が「イデア」に対応する動きをします。その刺激を受けて、無限の感受性である精神が、「イデア」を想起します。ですから、私は物質ではなく精神であり、宇宙に偏在する精神の全体が包括者です。

 物理学では、有が振動すると物質や光が生じ、振動が止まると真空に見えるとします。したがって、脳を構成する粒子が「イデア」に対応する波動になると、「イデア」を感じます。故に、感じも有の波動であり、有が「イデア」を感じているのです。
 この様に、物質も「感じ」も存在し、双方波動です。これを「CATBIRDの波動一元論」と言います。以下で、この内容を詳説して行きます。

U.存在論

1.目の前の花は本当にあるのか
 まず、@から説明します。
 今、私の目の前には花があります。しかし、この花は本当にそこにあるのでしょうか。もしかしたら、私は花の夢を見ているだけなのかも知れません。私には、その花が夢なのか現実なのかを区別する術はありません。

 そもそも私には、心の外にある花を直接感じることは出来ません。私が感じているのは、心が作り出した花です。そして、心の外の世界がどうなっているか、私には知る術が全くありません。
 例えば、部屋の中でテレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出します。しかし私は、現場そのものを見ている訳ではありません。
 あくまでも私は、テレビが作り出した場面を見ているだけです。部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。

 花を見たとします。眼が光の刺激を受けて神経の中を信号が流れ、それが脳に到達します。脳がその信号を受けて、脳の中の物質の一部が花に対応する動きをします。私は、その花に対応する物質の動きによる刺激を受けて、花を感じるのです。
 それは丁度、カメラが光の刺激を受けてケーブル及び電波でその信号が流れテレビに到達し、その信号よりテレビが絵や音を作りだし、それを私が見ているのと同じです。

 私が感じている花は、脳が心の中に作り出した花です。つまり、テレビに映し出された花を感じているようなものです。決して、心の外の世界(以下、「外界」と言います)にある花を感じている訳ではありません。

2.外界に赤い色はない
 そもそも花の赤い色は、外界には存在しません。物質の表面に当たって反射する「様々な波長の光」が存在するだけです。
 では、音はどうでしょうか。外界には、「色々な波長の空気の振動」があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。
 味はどうでしょう。同様に味もありません。臭いはどうでしょうか。臭いも外界にはありません。人の感覚器官を刺激する「化学物質」があるだけです。
 熱い冷たいと言うことが、外界に在るでしょうか。物質を構成する粒子が、振動しているだけです。絶対0度では、全ての振動が止まります。温度が高くなるにしたがって、物質の振動が大きくなって行くだけです。この様に、外界には熱い冷たいもありません。

 全て心が作り出したものです。次々に、心が作り出した「感じ」を捨てて行きます。すると最後に残るのは、『この範囲にある「もの」が存在している。そして一定の時間が経過してここに移動した。』との「時間と空間の直感」だけです。
 しかし、貴方が感じている時間と空間も、心の外にある時間と空間を、直接感じている訳ではありません。貴方は、自分の心が作り出した時間と空間を感じているのです。

 この様に、花の「赤い色」や「芳しい香り」や「甘い蜜の味」や「柔らかな触感」、更に花が触れ合った「サラサラ音」は外界にありません。また、花の形や風にそよぐ動きも、外界のそれを感じている訳ではありません。

 この様に私の感じている世界は、私が心の中に作り出した世界(以下、「内界」と言います)です。決して、心の外にある世界を、直接感じている訳ではありません。私の心の外に、実際に世界が広がっているか否か、私には知る術がありません。

3.外界は本当にあるのか
 では、外界は本当にあるのでしょうか。地球は本当にあるのでしょうか。私の手は本当にあるのでしょうか。私にとって、疑い得ない自明なことは一体何でしょうか。

 この様に疑い得るものを、本当にそれが自明であるか否か疑うことを、「方法的懐疑(デカルト)」と言います。
 その結果デカルトは、疑うことの出来ない自明なことを1つだけ発見しました。「我思う故に我あり」です。「疑っている自分の存在だけは疑い得ない」ことに気が付きました。自分が存在しなければ、疑うことが出来ないからです。
 そしてそれ以外のことは、本当なのかどうなのか、人間には分からないのです。

 しかし、自明なことしか信じないのであれば、「そこまで」です。
 ところで私の心は、「1+1=2」に制約されています。心の中では、ものは消えたり生じたりします。従って、「1+1=1」でも、「1+1=3」でも構いません。
 一方「物質」や「エネルギー」は、無から生じたり、消えて無くなったりすることはありません。「保存則」が成立します。したがって、外界は「1+1=2」です。
 私の心が「1+1=2」なのは、私の心の中の世界(内界)が外界に似せて作られているからです。外界に「1+1=3」を適用すると、それは誤った行動となり失敗します。私の心が「1+1=2」に制約されていること自体が、外界の存在を示唆しています。ですから私は、外界の存在を信じます。

4.我々には、物の作用と機能しか知る事が出来ない
 この様に心は、「外界」に出来る限り似せて、「内界」を作り出しています。つまり「外界」には、「内界のもの」に似た物が存在します。

 しかしカントが主張するとおり、我々は外界にある「物自体」を知る事は出来ません。我々に感じることが出来るのは、外界にある物の「他者への影響力」のみです。
 物体Aが物体Bに「与えた変化」を、我々は五感(光・音・匂い・味・触感)の情報により知ることが出来ます。それを、Aの「作用と機能」と言います。「作用」は目的を持たない影響力であり、「機能」は目的を持った影響力です。

 そして幾ら探求しても、物質の根源(物自体)を知る事は出来ません。現在物理学では、森羅万象を1本の「超ひも」の振動で表し計算します。しかし、「超ひも」自体が何から出来ているのか、我々に知る術はありません。

5.法則とイデア
 「超ひも」の振動が他の超ひもの振動に与える作用で、「質量」や「万有引力・電磁気力・強い力・弱い力(4つの力)」を説明します。それらで、素粒子を説明し、素粒子で原子を説明し、原子で分子を説明し、分子であらゆる物質の変化を説明します。
 また、「質量」や「4つの力」で「加速度」「速度」「運動量」「エネルギー」を説明し、ニュートン力学ではそれらで全ての物体の動きを説明します。

 我々が、内界での思考に使う「質量」「4つの力」「加速度」「速度」「運動量」「エネルギー」に対応するものは、外界には無いかも知れません。しかし、それらを使って正しく思考出来るので、「道具」としては真です。

 同様に、我々が内界での思考に使う「権利」「義務」に対応するものは外界には存在しません。しかし法学上、それらが存在するとして思考します。つまり、それらも「思考の道具」です。これらの道具を「法則」及び「イデア」と言います。
 正しい答えが導けるのですから、これらの「イデア」は数学の「法則」と同じです。

V.認識論

1.どうして我々は、物の作用や機能を知ることが出来るのか
 カントは、我々が感じている世界は心の中にある「内界」であり、決して「外界」そのものではないことを明確にしました。
 では、外界を直接感じることが出来ないのに、どうして我々は外界にある物の本質的な「作用と機能」を知ることが出来るのでしょうか。
 これが、問題「Aどうして人は外界の物を認識できるのか。」です。

2.現象の正体
 前述のとおり、外界にある「物自体」を知る事は出来ません。物が他者に与える影響を、光・音・匂い・味・触感を通じ得て、その情報が脳に送られ、脳を構成する粒子がその物に相当する動きをし、その刺激を受けて心が内界に五感で構成された「もの」(以下、外界にある物と区別し、内界にある方を「もの」と言います。)を再現します。
 そして私は、内界に再現された「もの」を感じています。

 受動的に与えられた「五感」で形成された「もの」は、この段階では全く「区別」がありません。それらは、ただ流転し変化し続ける「表象」です。この「流転する表象」を「現象」と言います。
 「もの」自体には区別が無いので、この状態では我々は何も理解出来ません。この「流転する表象」が、我々に与えられた世界の正体です。禅では、思考を止めて「現象」を直接知覚します。これを「純粋経験」と言います。「純粋経験」とは、何の区別もない、与えられたままで、ありのままの世界を体験することです。

3.観念の弁証法的発展
 意識は「もの」を志向し、それを理解しようとします。しかし「もの」には、何も区別がありません。「もの」はただの「純粋な有」です。「純粋な有」は、ただあると言うだけで、それ以上の内容はありません。
 これでは、ただ無いと言うだけの「無」と同じです。両者からは、他者への影響力である「作用」と「機能」が導けないからです。

 この「有」と「無」の矛盾により、意識は「純粋な有」=「もの」の中に「作用と機能」を見つけようとします。そして意識は、複数の「もの」が織り成す「現象」に、様々な「幾何学的図形」を当て嵌め、それらの「動き」や「数や形の変化」を観察します。
 そうして意識は、あらゆる「現象」でも100%当てはまる、普遍的な幾何学図形の動きや数と形の変化を見出します。この「普遍的で変わらないもの」を「法則」又は「イデア」と言います。

 そして、まだ幾何学的図形の1つでしかない「イデア@」の中を同じ方法で観察し、より基本的な「法則」や「イデア」の組み合わせで説明します。
 これを繰り返すことで、「イデア」の「内容(仕組みや構造)」はどんどん充実して行き、最終的には「時間」と「空間」の変化である「波動」で説明します。この過程を「反省」と言います。
 「法則」や「イデア」が見出されると、「もの」は「純粋な有」から「定有(何かとして規定された有)」になります。
【補遺】
 >人は、大気や土の中に様々な化学物質を見出し、化学物質の中に分子を見出し、分子の中に原子を見出し、原子の中に素粒子を見出し、素粒子の中に「超ひも」を見出します。「超ひも」は単なる「波動」であり時間と空間で表現されます。<

 例えば、「お化け」や「霊魂」と言った外界にはない「イデア」も存在します。これらは未反省で構造を持ちません。人はそれらを使って形式的に思考します。ですから未反省で内容のない「観念」はただの「形式」です。「形式」を使って思考すると、「机上の空論」になります。

 この様に、精神界にはありとあらゆる「イデア」が存在します。そして、精神界全体が包括者です。「クオリア」「イデア」と言ったあらゆる「感じ」は、この包括者より私の心に不断に流入します。その包括者を「神」と呼びます。

 物理学では、森羅万象は「超ひも」の振動で表され計算されます。「超ひも」が振動すると光や物質と見え、振動が止まると真空と見えます。
 しかし、科学の進歩に伴い「超ひものイデア」も止揚されます。ですから、本HPでは森羅万象は「有」の振動で表されると述べます。

 この様に、「有」が振動を始めると「定有」になります。振動していない「有」は「無」と同じです。振動を始めると、「有」は「何か」として在ります。

 そして、脳内の粒子が「赤い」に対応する振動をすると、我々は「赤い」と感じます。したがって、「赤い」と感じているのは「有」です。「有」が振動すると「感じ」が現れるのは、「有」がその振動を感じているからです。
 この様に、物質も精神も「有」の波動です。これが「CATBIRDの波動一元論」です(2020/07/24am06:55)。

4.哲学の歴史
 この「反省」により、意識はより基本的な「法則」や「イデア」を探求し続けます。
 ヘラクレイトスは、「万物は流転する」としました。つまり、「現象」を「流転する表象」と認識しました。ピュタゴラスはその「流転する表象」の中に、「変わらないもの」である「幾何学的図形」とその「変化」があることを発見しました。
 エンペドクレスは、流転する現象は「土・水・空気・火」の4つの「イデア」により起こると考えました。例えば、植物は土と水と空気から成長し、山火事が起こると火により土に帰ります。
 デモクリトスは、「土・水・空気・火」は質的には同等であるが量的には異なる「アトム」の結合と分離から成ると主張しました。

 19世紀初頭になりドルトンは、化学反応の前後で物質の質量が保存されることより、単一原子(原子)と複合原子(分子)があることを発見しました。
 ラザホードは、正の電荷を持つ「原子核」の周りを負の電荷を持つ「電子」が回っていることを発見しました。イワネンコは、原子核が陽子と中性子で出来ていることを発見しました。
 そして科学者は、陽子や中性子は3個の素粒子で構成されており、素粒子間を「ゲージ粒子」が往復することで「重力・電磁力・強い力・弱い力」の「4つの力」が作用することを発見しました。

 最終的に、素粒子も4つの力を媒介する「ゲージ粒子」も、プランク長の1本の「超ひも」の振動で表わし計算することが出来ることが分かりました。

5.波動哲学
 「超ひも理論」は更に「M理論」に発展しました。「M理論」では、宇宙開闢当初自由に動き回っていた「超ひも」は、宇宙のエネルギーの低下に伴い「相転移(水蒸気として自由に飛び回る水の分子が、氷として結晶状に整然と結合する様な現象)」して結び付き、宇宙の三次元を満たす「ブレーン」を構成したと考えます。
 そして森羅万象を、この「ブレーン」の振動である「波動」で表し計算します。

 そして、万物が流転する原動力はこの「波動」です。一方「イデア」は、外界を理解する道具であり、内界を動かす原動力です。しかし、「イデア」が外界を動かしているのではありません。

 「ブレーン」の波動は、三次元宇宙空間の隅から隅まで伝わり、また戻って来ます。この波動の流れが止まる事はありません。これを「因果」と言います。
 「因果」とは、原因が結果を生み、その結果が原因となってまた新たな結果を生む流れです。
 他者に影響しない存在は、あるとは言えません。それが在ると認識される為には、他者に影響しなければなりません。そして波動と波動は、合わさって新たな波動となります。ですから、有を伝わる波動は他の波動に影響します。
 つまり、原因となる波動が結果となる波動を生み、その波動が原因となりまた結果となる波動を生みます。

 そして、物質的因果も精神的因果も、全て「有の波動」です。有自体の波動が物質として現れ、有が波動すると「赤い」と言った感じが現れるからです。

 この様に我々は、「物自体」を知ることは出来ません。つまり我々は、「超ひも」や「ブレーン」と呼ばれる「有」自体が、何で出来ているか分かりません。しかし、我々は波動を知ることが出来、そのために波動が他の波動に影響する「因果全体」を知ることが出来ます。ですから、他者に影響しない「物自体」は不要です。

 私は、自分から発した原因が、宇宙を満たす有を伝わり、再び自分に結果として戻って来る「因果のループ」を「因果の数珠」と表現しました。そして、この「因果の数珠」の中には、様々な作用や機能を持った存在があります。波動→素粒子→原子→分子→道具→機械装置→単細胞生物→多細胞生物→動物→子供→老若男女→会社や集団→国家等です。
 私はそれらを「珠」と表現しました。1つ1つの珠は、複数の作用や機能が有機的に結合した「イデア」です。波動から国家へ向かうにしたがって、「イデア」は低次から高次になります。

 そして「因果のループ」は「因果の回路」です。回路は、物質回路(物質的因果関係)と精神回路(精神的因果関係)に分かれます。

 以上のとおり、哲学や科学により様々な「イデア」が想起されました。それらの「イデア」を組み合わせて、各種工学や社会科学におけるより高度で複雑な「法則」や「イデア」が導かれます。つまり、「人工物」や「社会システム」は、人間により探求された「法則」や「イデア」で作られています。

 そして、最上位は「国家のイデア」です。そこでは自己と他者、マイナスの関係とプラスの関係が融合します。つまり、私はどんな立場の国家の構成員にでも成り得るし、どんなプラスの立場やマイナスの立場にもなり得えます。

 そして「国家」は、あらゆる立場の人を平等に扱い、かつその福祉を最大にするシステムです。つまり、国家の構成員間の対立は、法律により止揚されています。そうして「国家」は、1つの無矛盾なシステムを成しています。

 化学・工学・心理学等の自然科学の「イデア」は、物的構造や精神構造を持ちます。一方、人文科学や社会科学の「イデア」は、「人・物・金・情報」の組み合わせで説明されます。お金は、人同士の約束と物との結合です。情報は、「人・物・金」をどの様に動かせば目的を達成できるかの解法です。
 そして、見て触れるのはこの4つだけです。自然科学において、物質構造や精神構造を紐解くことは意味があります。しかし、社会科学においてこの4つを分解することは無意味です。

 したがって、社会科学の理論を理解するには、それを「人・物・金・情報」の組み合わせで表す必要があります。人の集団は、単純なモデルに直します。例えば、アメリカ人気質やフランス人気質等です。
 この様に社会科学の「イデア」は、「人・物・金・情報」がその「内容」となります。
 以上、因果の数珠を説明しました。

6.反省による観念の発展
 前記のとおり「反省」により、「イデア」はより下位な「法則」や「イデア」の組み合わせで説明され、内容を獲得します。これに対して未反省の「イデア」は、「形式」のみで「内容」がありません。「形式」とは他者への影響力(作用と機能)であり、その作用や機能の仕組みである「内容」を含みません。

【補遺】
 >例えば、時計を使って物が落下する時間を測定します。時計の「形式」は「時間を計る」です。時計の「内容」は「時計の構造」です。
 ですから、時計の「内容」を知らなくても、その「形式」を知っていれば、落下時間を測定出来ます。しかし、時計が壊れた時、時計の「構造」を知っていないと、それを修理して落下時間を測定することは出来ません。
 この様に、より下位の「イデア」の組み合わせ(時計の部品の組み合わせ)で完全に説明できると、その「イデア」を自由自在に操作することが可能となります(時計を修理し改造し時間を自由自在に測定できます)。<

 この様に意識は、「純粋な有」では何も理解出来ないので、「現象」に「幾何学」を当てはめ、「法則」や「イデア」を発見しようとします。そして発見した「イデア」をどんどん反省し、より基本的な「法則」や「イデア」で説明して行きます。
 「数・量・度」は、方程式で表わすことが出来る「イデア」の要素です。一方「質」は、方程式で表わすことが出来ない「仕組み」です。

【補遺】
 例えば、洗濯物の乾燥機の「イデア」では、その部品の数・送り込む風量・暖める温度は数式で表すことが出来ます。しかし、部品の組み合わせは方程式で表わすことが出来ません。部品の組み合わせ方に応じて、乾燥機の質が異なります。

 以上のとおり、意識は「現象」に「幾何学」や体験や学習で得た基本的な「イデア」を当てはめ、現象の「他者への本質的な影響力」を帰納します。そして帰納した「本質」の投網を精神界に投げ、該当する「イデア」を想起します。その後、その「イデア」の「本質」を演繹します。両者が一致すると、意識は「真」と認識します。

 両者が一致せず矛盾があると、再度精神界に投網を投げ、より矛盾のない「イデア」を想起します。そしてまた、両者が一致するかを検証します。これを繰り返すことで、「イデア」は矛盾のないものに止揚され、弁証法的に発展して行きます。

7.論理による観念の発展
 また、現象から帰納される「本質的機能」が不明確な場合には、真の「イデア」を想起するために、意識は三段論法・背理法・推理等の形式論理を使います。

 心は「もの」を「種類目」に分類します。そして、種は類に含まれ類は目に含まれます。したがって、目の持つ本質を類は持ち、類の持つ本質を種は持ちます。
 この分類により、我々は三段論法で思考出来ます。この分類が明確でなければ、「この種はこの類に含まれる筈である」と推理しなければなりません。

【補遺】
 >例えば室町時代に日本に初めて象が来ました。日本人には、象のことが何も分かりません。ですから、三段論法で象の機能を探求します。「動物は必ず水を飲む」「象は動物である」「したがって象は必ず水を飲む」です。
 次は、背理法を使います。「象は目が見えない」と仮定します。象の目の前にリンゴを置いても象は無視するはずです。しかし目の前にリンゴを差し出すと鼻で上手に取り口に運びます。したがって、仮定は偽であり「象は目が見える」です。
 次は、推理を使います。「家畜は人の言うことを聞く」「象は家畜かも知れない」「そうすると象は人の言うことを聞くかも知れない」です。<

 象の例の様に、内界にある「もの」は外界から入力された情報により、論理を使い絶えずその機能を加除され発展して行きます。それはまるで、血液により栄養素や酸素が細胞に運ばれ、細胞が成長して行くのと同じです。

8.仮想実験による観念の発展
 こうして、五感から成る表象である「もの」と「イデア」とが結合し、心の中に「概念」を形成します。
 原因となる「概念」と結果となる「概念」とが繋がり、心の中に「因果関係」で出来た場面を構成します。そして、想定外の原因や結果が無いかを精査します。
 こうして、全体を矛盾無く説明出来る「場面」を設定し、その中に「自己」を特定します。即ち、心の中の「概念」は、対象・自己・環境・その他に分化します。対象は働きかける相手です。環境は対象に働きかけるために使う道具や人です。その他は、今の問題には関係しない物や人です。

 この様に、場面を設定し自己を特定すると「目的」が生じます。そして意識は、問題を解決出来る「解法」を見つけるため、「概念」を操作し「仮想実験」を行います。そして「解法」が見つかると、それを外界に適用します。

 ここで、自由意思について説明します。複数の「解法」から1つを選択するには、自由意思が必要だからです。
 物的に完全に均衡した状態からは、何の変化も生まれません。即ち、それは原因がなく結果もない状態です。
 それに精神の僅かな力が掛かり、均衡が崩れ変化したならば、原因なくして結果が生じたことになります。つまり、物的に完全に均衡状態にある脳に、精神の僅かな力が働きその均衡が崩れ、その脳が何かを決定したならば、私は原因から自由であったことになります。
【補遺】
 >例えば、ここにコインが立っているとします。このコインは完全に均衡しており、どちらにも倒れないので何の結果も生みません。ですから、このコインは原因になりません。つまり、原因も結果もない状態です。
 このコインに僅かな精神の風が吹き、少し右に傾きました。その不均衡がより大きな不均衡を呼び、傾きはどんどん大きくなり、終にコインは右に倒れます。これで、原因なくして結果が生じました。

 脳内の物質も、例えば「ボールから手を離すか離さないか」で均衡した状態にあります。そこに精神の僅かな力が掛かり、ボールから手を離す方向へどんどん傾き、終に手を離しボールは地面に落ちました。これで精神は、ボールを落とす意思を自由に選択したことが分かりました。<

 そして、精神が物質へまた物質が精神へ働きかける力は電磁気力です。そのことを検証します。
 肉体と言う物質は精神に影響を与えます。脳の働きにより、精神に様々の感じを生じさせます。精神に働きかける物質の影響力は何でしょうか。
 それが重力であれば、重力が強くなったり弱くなったりした場合、精神が受ける感じ方は異なることになります。例えば重力の強い惑星に降り立ち、又は重力のない宇宙空間に行った場合、精神は異なる感じ方をし始めるでしょう。しかし、それは起こりません。
 強い力は、極近い距離でしか働かない作用です。弱い力もそうです。精神に影響を与える手段に使えそうにありません。
 物質の存在とその移動そのものが、精神を感じさせているのでしょうか。もしそうであれば、脳が動いただけで、感じ方が変わることになります。脳が動けば、物質が動くからです。歩く度に、感じ方が変わることになりますが、実際にはそうではありません。
 最後に電磁力が残ります。電磁力が精神に影響し感じを起こさせているのでしょうか。
 実際、脳の中は複雑な電磁力が生じています。例えば交通事故で植物人間になった場合でも、電極を脳に埋め込み電気を流すと、健康な状態に近づくことが医療では知られています。後頭部の視覚を司る部位にアの形に電極を埋め込み電気を流すと、本人にはアと見えることが知られています。物質は、電磁力により精神に影響を与えているようです。
 電磁力により影響を受ける精神は、電荷を帯びており移動するはずです。精神は物質の電磁力により移動し、電磁力により生じた快の感じに精神は留まろうとし、不快の感じからは精神は遠ざかろうとします。
 そうであれば、精神は自分自身の動きと電磁力により、物質を動かすことが出来ます。

9.内界で得られた「解法」を外界に適用出来る理由
 しかし、外界の「物」と内界の「もの」とは異なります。それなのに何故、内界の「もの」の操作を、外界の物に適用出来るのでしょうか。
 以上のとおり内界の「もの」は、究極的に波動で説明されます。波動は内界の「主観的な時間と空間」で記述されます。
 その「もの」を使い「仮想実験」をして、問題を解決出来た「解法」を、自分の肉体を通して外界の物に適用します。
 「内界の肉体」は、主観的な時間と空間に従います。一方、「外界の肉体」は客観的な時間と空間に従います。外界の物も波動であり、その波動は「客観的な時間と空間」により記述されます。
 この「主観的な時空間」と「客観的な時空間」とが一致するので、内界の波動と外界の波動は一致します。ですから、「内界の肉体」と「外界の肉体」との動き方が一致し、内界の「もの」と外界の「物」の動きも一致します。

【補遺】
 >言葉を変えて説明します。
 「主観的な時空間」にも「客観的な時空間」にも、「1+1=2」が成立し、かつ双方の1の大きさが等しいのです。前者も後者も無から有は生じません。有は無になりません。つまり時間や空間が、勝手に増えたり減ったりはしません。ですから「1+1≠3」「1+1≠1」です。この様に、主観的な時空間は客観的な時空間に出来る限り似せて作られています。そうでなければ、内界の「仮想実験」で得られた「解法」を外界に適用すると失敗します。
 この様に、「主観的時空間」と「客観的時空間」とが一致するので、内界の「もの」の「解法」を、外界の物に適用出来ます。<

10.実存は本質に先立つ
 以上のとおり、心の中の主観的時空間に投企された「私」は、先ず「実存」します。その後、意識は「私」に様々な「本質的機能」を付け加え、その本質から目的を導きます。故に「私」は、「本質」に囚われず「私」の目的を自由に選択することが出来ます。こう言う意味で、私の「実存」は私の「本質」に先立ちます。

 もし、神が「私」を作成したのであれば、神は「私」の「本質」を知った上で作成した筈です。そうならば、「私の本質」は「私の実存」に先立ちます。
 しかし人は先ず存在し、それから自分の本質を形成します。神は「イデア」の流出元であり、私の認識の源泉になっているだけです。
 ですから、実存は本質に先立ちます。

 この様に私や物は「外界」にあるのではなく、心の中の「内界」にあります。つまり、私や物は「私の時間」と「私の空間」の中にあります。「実存主義」は、世界が「外界」から「内界」へ移行したことを意味します。

11.自己の特定と目的の設定
 次は、自己の特定です。意識は場面の中に「自己」を特定します。そうすると、他者と自己とに分かれ、意識は「目的」を持ちます。
 自己を「肉体」と特定するか「精神」と特定するかで、目的が変わって来ます。

 自己を「肉体」と特定すると、肉体の「機能」が自己となります。
 肉体には、様々な機能があります。@歩き・A持ち上げ・B対象を見て・Cそれを操作し・D食物を消化吸収し・E呼吸をします。無数の機能が肉体にはあります。DEは、@からCの機能を保守するための機能です。機能を持たない物質は肉体にはありません。
 自己を「肉体」とすると、「その諸機能を保ち、十分に発揮させること」が目的になります。それが「幸福」です。ですから、「幸福」は、肉体の機能の数だけあります。

 今現在の自分の肉体の機能を発揮することは「欲望」です。つまり、食欲や性欲を満たします。一生に渡って、自分の肉体の機能を十分発揮させることは「希望」や「夢」です。学習や経験を積み「自己を実現」します。
 自己の子孫の肉体の機能を発揮させることは、「子孫繁栄」です。子や孫を「養育」し「教育」することで達成します。その為には、配偶者の肉体の機能を発揮させなくてはなりません。それが「愛」です。
 家族を養うには、仕事をしなければなりません。そこで、会社の機能を発揮させる「愛社精神」や「忠誠心」が生まれます。家族や会社を保つには、地縁社会や国家が必要になります。地縁社会の機能を発揮させるために「道徳」「善悪」が生まれます。国家の機能を発揮させるために「愛国心」「正義」「公平」が生まれます。

 この様に、「@自己の物質構造を、将来の環境に適した形で子孫に伝えて残すこと」が「最終目的」になります。即ち、その目的を達成した生物のみが生き残ったのです。それを目的にしなかった生物は消滅しました。つまり、存続することを目的にしたものだけが、未来に存続し続けるのです。
 そして、「A会社や地縁社会や国家の機能を保ち十分発揮させること」は「中間目標」です。この「中間目標」は「最終目的」を達成する手段です。つまり、「善・正義・公平」を達成することで、自己の子孫を安全に残すことが出来るのです。

 これに対して自己を「精神」と特定すると、精神全体は「神」なので、「神の意思を実現すること」が目的となります。

 故に自己を精神と特定すると、「B神を出現させること」が「最終目的」になります。
 進化の最終章で、物質全体(宇宙)は究極まで進化しその波動で、精神全体(神)に刺激を与えて活性化し、全知全能な「仏」が現れます。したがって、「仏」は「宇宙」と「神」のコラボです。そして、「仏」は人格神です。
 仏教では56億7千万年後に、「弥勒菩薩」が全知全能な「仏」として出現すると予言しています。
 物質を究極まで進化させるには、「現在の生存競争を更に進めるか」「遺伝子操作によるか」「AIによるか」の方法があります。昨今のAIの爆発的進化を見ると、それはAIかも知れません。

 若しくは、生きとし生けるものは同じ神の一部なので、「C全ての生命に博愛を注ぐこと」が目的になります。@ABCのいずれを最終目的とするかは、各自の「信仰」の問題です。

 心の中の「私自身」は、大きさのない「点」であり、何も実体や機能はありません。それを「肉体」「精神」「道具」「機械」「家族」「味方」「会社」「敵」「国家」等の諸機能が取り巻いています。つまり、「私」を肉体と精神が取り巻き、それを社会システムが取り巻いて、心の中の世界(内界)を形成しています。

 この様に内界では、これらの諸機能が真珠の層の様に何重にも「私」を取り巻いています。そして内界全体を見渡すと、「私」の目的達成に「有益な存在(プラスの機能)」と「害になる存在(マイナスの機能)」に大別されます。
 「私」を取り巻く道具、商品、会社、国家等の諸機能は、私の機能を補助します。「私」を取り巻く敵、敵の武器、ライバル会社、敵国等の諸機能は、私の機能を阻害します。

 「私」を取り巻く諸機能の内、どれが私なのかを特定すると、その機能を保全する目的が生じます。「弊社」や「母国」を私と信じると、「愛社精神」や「愛国心」が生まれ、自分の会社や国を守る目的が生じます。それは上記最終目的(自己の物質形態を後世に伝えること、又は神の意思を実現すること)を達成する「中間目標」になります。
 そして幸福は、「上記した私の機能の内どれを十分に働かせるのか」で分類されます。

【補遺】
 >集団における機能には、父母等の役割に基づく機能等があります。国家における機能には、国会・行政府・裁判所・警察等の法律に基づく権限等があります。これらの機能は、私が生活すると言う機能を全うさせてくれます。これがプラスの機能です。
 ライバル会社の販売機能や敵国の軍事機能はマイナスの機能です。<

12.心的動因のイデア発生
 次は、「心的動因のイデア」に移ります。
 最初に意識は、受動的に与えられた「五感による流転する表象」を感じます。これは「色・形・音・匂い・味・触感」より成ります。まだ何の区分もされていません。五感には「快と不快」の感覚があります。意識は「快」に近づき「不快」から遠ざかろうとします。ここに、快不快の感覚と言う心的動因が生じます。

 心的動因は、「快」「中性」「不快」が基本となります。あらゆるものは波動であり、心地よい周波数である「快」→快不快を感じない周波数である「中性」→厭な周波数である「不快」となります。

 次に意識は、現象に人や物の「イデア」を当て嵌めます。美しい人には気に入られ様とし、美しい物は手に入れようとする。ここに「美醜」の心的動因が生じます。
 そして意識は、人や物と「自己」との関係を設定します。家族や味方には「愛」が生じ、敵には「憎しみ」が生じます。自分の道具・器具・機械には「愛着」が生じ、敵の武器には「恐れ」が生じます。ここに「善悪」の心的動因が生じます。

13.解法の発見
 意識は、お互いに関係付けられたこれらの「概念」を使って、「仮想実験」を行います。その結果、問題を解決する「解法」が導かれ「真偽」の心的動因が生じます。これで「真善美」の心的動因が出揃いました。そして「解法」が、物の真の認識です。
 以上の様に、「心的動因」は感覚→感情→真偽へと弁証法的に発展して行きます。

 以上のとおり矛盾の解消法には、次の4種類があります。@場面を構成する「イデア」を変更する、A「イデア」を追加・削除する、B仮想実験に失敗した時、手段となる「イデア」を変更する、C心的動因の「イデア」を変更するです。これが「弁証法」です。

 一方物質界において、より対立の少ない「システム」を作り上げて行く過程(法律や経済における対立の解消)が、「弁証法」と表現されることもあります。しかし、これは論理学ではなく事実です。

W.汝自身を知れ

1.私はテレビではない
 ここまで、観念の弁証法的発展について説明して来ました。対象・自己・目的・心的動因・問題の諸観念が、「現象」の段階の「単なる感覚」から、「イデア」や「論理」更に「仮想実験」を経て「解法」にまで発展し、我々が真の認識に到達する様を明らかにしました。

 では、この様に認識している私は誰でしょうか。これがB番目の問題です。
 上記の「テレビの喩え」まで戻ります。テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。 では、脳と言う物質が私なのでしょうか。
 花を感じているのが私です。しかし本当に、脳と言う物質が花を感じているのでしょうか。もしそうなら、そこらに転がっている石も、何かを感じている筈です。
 本当に、陽子と中性子の周りを電子が回っているだけの存在が、何かを感じているのでしょうか。 前記のとおり、「赤い」とか「熱い」とかの感覚は決して物質ではなく、心が付け加えた「精神的な存在」です。

 幾ら、科学が発達して全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで「熱い」と言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。
 この世の中には、物質でないものも存在しています。もし物質だけであったら、どうでしょう。 ロボットは物質だけで出来ています。
 科学が発達し高性能なロボットが出来たら、人間と同じ反応をするでしょう。世間話をして冗談を言うでしょう。
 やかんに触れると「熱い」と言うでしょう。しかしロボットは、私たちが感じている熱さを感じている訳ではありません。
 何かを感じていると言う事は、人間は物質だけから出来ているのでは無いことを証明しています。

2.私は精神である
 その「精神的なもの」を感じている私は、物質ではなく「精神的な存在」です。決して、石や木が何かを感じている訳ではありません。つまり、「赤い」「熱い」の感じは私の一部です。私は、「精神的な感じ」の集まりです。

 テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。
 もし見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても、元の通り見える様にはなりません。テレビを修理して、元の通り見える様になったと言うことは、「私自身は何も変わってはいなかった」ことを証明しています。
 同様に、もし病気で脳が壊れて何も感じなくなったとしても、医学が発達し脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。この事実は、「私自身は何も変わっていなかった」ことを証明しています。
 病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも、脳を元の状態に戻せば元の通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。

 テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通り見ることが出来ます。脳が死んで無くなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通り感じることが出来ます。
 死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘出来るでしょうか。生まれる前の状態から、人は生まれて来ました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。
 私自身は、死んだ後も何ら変わらずに存在しています。ただ信号を送る脳が無くなったので、何も感じていないだけです。そして、新しい脳が信号を送り出した時、また私は前と同じ様に感じる様になるでしょう。

 そして、人間の脳より遥かに高性能な脳が私に刺激を送る様になれば、もっと豊かな世界が心の中に広がるでしょう。そう言う意味で、現在私が感じている世界は、私のほんの一部にしか過ぎないのです。

 つまり私自身は、「生じるもの」でも「無くなるもの」でもありません。「穢れるもの」でも、「清くなるもの」でもありません。「増えるもの」でも、「減るもの」でもありません。私は、宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。

 心の中に作り出された世界は私の一部です。心の中の世界に居る「一人の私」が私なのではありません。その1人は「小さい私」です。
 心の中の世界に居る「私の敵」も私の一部です。心が私なのですから。故に、「汝の敵を愛せよ」と言えるのです。「欲しい物」は、既に貴方のものです。何故ならば、「欲しい物」は貴方の心が作り出した「貴方の一部」なのですから。

 この様に「私は精神である」と考えれば、自分は老いることも無く、病にかかることも無く、死ぬこともありません。愛する人と別れることもありません。また、お互いに生まれ出会うからです。これが「悟り」の内容です。

 これで、私は「精神」であることが分かりました。
 物質と物質は、自己の形態を後世に残そうと争います。他の物質がその物質を分解しようとし、その物質は他の物質を取り込みより複雑な構造を作り、それに対抗する様になります。
 それを繰り返しながら、物質は自己の構造を残すための「機能」を発展させます。そこまでは、ロボットの様に物質の機械的な動きのみです。
 そして終に、物質は精神を利用する様になります。精神により複雑な物質世界を心の中に再現し(内界)、その快不快・善悪・真偽により「目的」とそれを達成するための「手段」を決定し、それに従って行動する様になります。 これにより、非常に複雑な状況に対応出来るようになり、物質が自己構造を存続させるのに有利になります。

3.私は「神の一部」である
 物質である脳は、精神である貴方に信号を送ります。精神である貴方はその信号を受け取り、それを感じて心を作ります。
 物質である脳は移動します。したがって、移動する度に「精神の異なる部分」に信号を送ります。私の脳が1秒前に刺激を送った精神は、今の精神ではありません。
 記憶は、物質である脳の中に蓄えられます。精神の中に蓄えることは出来ません。1秒前に他の精神が感じた記憶を脳から受け取り、今の精神は自分が感じたのだと思い込みます。しかし、1秒前の精神と今の私とが同じであることを証明する方法はありません。
 もし精神の無い場所があれば、そこに脳が位置した時、何も感じなくなります。しかし、実際にはその様なことは起こりません。したがって、この宇宙には精神が満ちています。

 宇宙に充満している精神を、1つ2つと分けることは出来ません。それは1つの大きな全体です。物質の全体を「宇宙」と言います。精神の全体は「神」と呼ぶべきです。
 物質である脳は、1つの精神の一部に信号を送っています。そして脳が移動する度に、その信号を与える精神の位置を変えているだけなのです。

 我々は脳の波動(物質粒子の動き)により、様々な「@クオリア(感じ)」や「Aイデア(観念)」を感じます。そして我々には、「@クオリア」や「Aイデア」を、無から作り出すことは出来ません。したがって、@とAの由来は「神秘」です。
 脳内の波動が「神」の一部を振動させそれが顕在化することで、心の中に「@クオリア」や「Aイデア」を生じさせます。したがって我々には、「@感じやA理解は元々精神界にあり、それが心の中に流入した」としか言えません。つまり、我々が感じている「クオリア」や「イデア」は、神が感じて神が理解しているのです。

 したがって、我々の「心」は「神」の一部であり、「ブラフマン(神の中の精神宇宙)」と「アートマン(我々の心の中の精神宇宙)」は同一です。ただし、外界の物質宇宙はこれらとは「別もの」です。

 この様に、精神全体が「神」ですが、その大部分は未だ波動しておらず「無意識の世界」にあり「未実現」です。したがって現在の「神」には、「人格」も「意思」もありません。我々の認識の源泉になっているだけです。

4.神の出現
 全ての物質(宇宙全体)の波動で精神全体(神)を振動させ、それを意識上に現すと、「神」が出現します。この究極まで進化した「物質と精神」が「仏」です。
 「仏」は、全物質と全精神とから成る「全知全能な人格神」であり「意思」を持ちます。仏教では、56億7千万年後に、「弥勒菩薩」が「仏」となり出現すると予言しています。
 つまり、実現した神は未来にあります。現在、「神」は潜在的に無意識の世界に存在するだけです。これで、私自身は「神の一部」であることが分かりました。

X.波動一元論のまとめ

 この様に、「外界の物」も「内界の感じや理解」も「私」も「神」も、全て「波動」です。「有」が振動すると光や物質が現れ(超ひも理論)、脳の中の物質粒子が振動する(脳の波動が起こる)と心の中に「感じ(クオリア)」や「理解(イデア)」が現れます。

 そのためにプラトンは、「イデア」を「想起する」と表現しました。「法則」や「イデア」は理解そのものであり、何かを組み立ててそれらを作ることは出来ません。ですから我々には、「それらは元々精神界に在った。それが私の心に流入した(=それを私が想起した)」としか言えないのです。

 そして「波動」は、何処までも伝わり止まることはありません。原因となる「波動」が結果となる「波動」を生み、それが原因となってまた結果となる「波動」を生みます。これが永遠に続きます。そして、波動全体が「因果の網」です。

 「波動」は他者への影響力であり、それが具体的に現れたのが「作用」と「機能」です。因果関係は、「作用」と「機能」の連続で続いて行きます。原因となる「作用・機能」が結果となる「作用・機能」を生み、それが原因となり結果となる「作用・機能」を生みます。これが延々と続きます。

 ですから内界には、物自体・私自体・神自体はありません。「物」や「私」や「神」の「作用や機能」があるだけです。他者に影響しない物自体は意味を成しません。思考には、他者への影響力だけで必要十分です。
 そして、「作用・機能」の有機的結合体が「イデア」です。「イデア」は内界の「仮想実験」と言う舞台で、自分の役割を演じます。

 「イデア」と「現象」との一致を確認する「反省」の手続により、「イデア」はより下位の「法則」や「イデア」の組み合わせ(「作用」や「機能」の組み合わせ)で説明されて行きます。最終的には「波動」で表されます。したがって、十分反省された「イデア」は外界の物と一致します。

 物質は、物質でない「感じ」を開示することは出来ません。したがって、我々が感じている「もの」は、全て精神界から心に流入したものです。この意味で「唯心論」にも一理あります。
 しかし、外界の物の刺激を感覚器官が受け、その刺激に基づき精神界から内界に現象が流入します。この意味で「唯物論」にも一理あります。

 デカルトは、物質と精神を分け「二元論」を提唱し、「人が心の鏡に映る精神を作り出すことが出来ない。そこに映ったのは神である。」としました。
 物質そのものは、精神に対して自らを開示出来ません。物質から得られる五感の情報より、精神界にあるそれと似たものが想起され、それが心の鏡に映ります。故に我々は、物質よりも先に精神を知ります。

 しかし、物質界も精神界も「波動」より成ります。「波動」である「因果」が、物質界(外界)と精神界(内界)を通して伝わります。故に、「唯物論」と「唯心論」は「波動一元論」に統一されます。

 以上のとおり、「作用」と「機能」が有機的に結合し「イデア」となります。「イデア@」の「作用と機能」が原因となり、「他のイデアA」を変えそれが結果となります。この因果関係が延々と続きます。その全体が「因果の網」です。「イデア」は、因果の「数珠」(機能の塊の部分)です。

 「イデア@」の為すままに「他のイデアA」が変化すれば、その結果は「必然」です。「他のイデアA」が「イデア@」の作用に対抗すると、その結果は「偶然」になります。

 この様に機能とは、「他者の影響によりどの様に自己が変化するか」と「他者をどの様に変化させるか」の入力と出力です。この入力が原因であり出力が結果です。この2つを合わせて「因果」と言います。

 森羅万象の機能は、究極的には波動で記述されます。そして波動は、回路(どのルートを伝わるか)と振幅(波の高さ)と周波数(単位時間当りの振動回数)より成り立ちます。
 つまり、波動が機能の中をグルグル回っており、その「通り道」が回路です。波動は動的(常に移動している)ですが、回路は静的(静止している通り道)です。

 他者の影響で、自分の機能の回路が変化します。そして、その変化した機能は他者の機能の回路を変化させます。
 「因果の数珠」はこの回路です。

 そして基本となる作用は、質量と4つの力による引力と斥力です。そして、それらから「押す・引く・運ぶ・切る・曲げる・繋げる」等の移動や加工の機能が説明されます。これらは「物的機能」です。

 この回路が情報処理能力を持つと、「特定の相手に、特定の変化をさせる」様になります。
 「機械的機能」で情報処理を行うには、他者との接触が必要となります。「接触の力の強さ・その方向・力の掛かる時間・相手の温度」等で、相手に加える力の方向や大きさ(無を含む)を決定し、相手に及ぼす「押す・引く・運ぶ・切る・曲げる・繋げる」等の機能を決定します。これで物質は、目的を持った機械となります。

 「コンピュータ機能」で情報処理を行うには、二進法の入力数値と出力である具体的な「移動や加工方法」を紐付きにします。この紐付けは、回路の途中にあるスイッチを、オンやオフにして(プログラムして)行います。

 ここまでは、物質粒子の質量と4つの力でした。しかし物質粒子は、最終的に「モナド」を身に纏います。すると意識は、物質粒子の振る舞いを直接感じる様になります。こうして心の中に、モナドより回路が作られます。これが「精神的機能」です。

 自己の精神的機能は、相手の精神回路を変えます。つまり、相手に好かれたり、相手を発奮させて努力させたり、相手から社会的常識のある人と見られたりする様に働き掛けます。逆に、相手に自己の精神回路を変えられることもあります。

 この精神的機能が進化すると、心は内界を作ります。そして外界からの僅かな入力情報(五感の刺激)より、意識は内界の該当する場面の時と場所を特定します。そうして仮想実験を実行し、その解法を見つけそれを外界に適用します。これが出力です。ですから、出力の違いだけ入力は分類されます。

 以上のとおり、回路への入力が原因であり、回路からの出力は結果です。回路は因果の通り道であり、その回路が機能を発揮します。この様に、因果関係を「機能」のみで説明する思考を「機能主義」と言います。

 一方構造主義は、言葉の導きにより仮想実験を成り立たせている機能の組み合わせである「構造」を明らかにすることです。機能主義は、全てを機能の連続である因果で表現することです。

 本HPでは、機能より哲学の全てを記述します。物質も精神も機能で記述されます。物自体や精神自体を幾ら探求しても、回答は得られません。したがって、それらを一旦括弧に入れて、その機能のみを記述します。


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