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邪馬台国畿内説の新根拠 卑弥呼の語源はひめのみことである

T.箸墓古墳

 最近、卑弥呼の墓ではないかとされる、奈良県桜井市にある箸墓古墳への立ち入り調査が実施され、話題を呼んだ。
「魏志倭人伝」によると、卑弥呼(ひみこ、生年不明 - 248年頃)は倭国の女王で、邪馬台国に都を置いていたとされる。 238年に魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。

U.邪馬台国畿内説と九州説

 邪馬台国の所在地については、畿内説と九州説とがあり、未だ決定的な説はない。
 「魏志倭人伝」には、卑弥呼の使者が語った、現在の韓国から邪馬台国までの行程が記されている。 その通りに行くと、九州を飛び越えて太平洋の海の上となってしまう。
 そこで、九州説は、卑弥呼の使者は距離を誤ったと解釈する。また、方向を変えると畿内に辿り着く。 畿内説では、使者が方向を誤ったのであると解釈する。

V.魏志倭人伝

 次に、卑弥呼の人物像を見て見よう。
 「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は鬼道を祭祀して人心を惑わし、シャーマンであったことが伺われる。 既に高齢で夫は持たず、弟が国の支配を政治面で補佐した。卑弥呼が死亡した時、倭人は直径百余歩もある大きな墓を作ったと記されている。

W.倭迹迹日百襲媛命

 邪馬台国畿内説の中では、孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)が、 卑弥呼であるとする説が最有力である。
 日本書紀によると、倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇に神の意志を伝える巫女の役割を果たしたとされ、卑弥呼に関する記述と一致している。 そして、箸墓古墳は、倭迹迹日百襲媛命の墓として築造されたと伝えられ、その後円部の大きさは、直径約160メートルあり大きさも 「魏志倭人伝」の記述と一致する。

X.畿内説の根拠

 私は、邪馬台国畿内説が正しいと考える。
 卑弥呼の使者は、後でその報告を卑弥呼にする必要がある。その為に、行程は詳細に記録していた筈である。当時まだ文字は無くても、何日掛かったのかは、線を引くとか印を付けるとかして、正確に記録しておかなければならない。掛かった日数を、何倍にも誤ることは考えにくい。
 しかし、方向を間違える可能性はある。当時は、方位磁石は無く、星座や太陽の位置から方向を判断していた。天候の悪い日には、星座も太陽も見えず、今まで進んできた方向から推理するしかない為、方角の判断を誤った可能性はある。そもそも、「魏志倭人伝」には、南へ水行二十日・・・と表現されているが、当時の日本に東西南北の概念があったのか疑問である。魏の役人に行程を聞かれ、そこで初めて方向の概念を教えてもらい、南へ何日掛かったと伝えたのである。方向の説明は、かなりあいまいなものであったことが容易に推測される。それに比べて、船で何日掛かったのかは、間違えようが無い。

Y.卑弥呼の語源は、「ひめのみこと」である

卑弥呼  また、当時の中国では(邪馬台)と書いて(やまと)と読んでいた。
 魏の役人が、卑弥呼の使者に向かって、お前を使わしたのは誰かと尋ねる。使者は「やまとととひももそひめのみことです。」と答える。 魏の役人には、(やまと)と(ひめのみこと)しか聞き取れなかった可能性がある。途中の(ととひももそ)は、同じ音の繰り返しであり、 どもった様に感じたのではないか。魏の役人は、「邪馬台(やまと)」の「卑弥呼(ひみこ)」と記録する。
 卑弥呼(ひみこ)の語源は、媛命(ひめのみこと)であるとするのが私の説である。これを邪馬台国CATBIRD説と呼ぶ(2013/2/27PM18:42)。 卑弥呼とは、彦命(ひこのみこと)や姫命(ひめのみこと)と言った、皇族の敬称である。
 邪馬台国であるヤマト王権が大和朝廷(天皇の系統)に続くので、大和(やまと)朝廷も邪馬台(やまと)国と音が同じなのである。