• CATBIRD日記 (物理・数学・歴史・哲学・宗教の未解決問題を扱ってます)
  • 何故、だるまは起き上がるのか

    達磨大使

     だるまは、禅宗の開祖菩提達磨(ボーディダルマ)をモチーフとして作られている。菩提達磨は、五世紀に南インドの王朝の第三王子として生まれ、中国で活躍した仏教の僧侶である。
     中国の梁の皇帝である武帝は、仏教を厚く信仰しており、天竺から来た僧侶を喜んで迎えた。その時、武帝は達磨に質問した。

     武帝「お前は誰か。」
     達磨「そんなことは知らない。」
     武帝は、この達磨の回答を喜ばず、達磨は北魏に向かった。後に、武帝は後悔して人を遣わして達磨を呼び戻そうとしたが叶わなかった。

    禅の悟り

     武帝は、初対面の相手に普通に「貴方は誰ですか?」と言ったつもりである。しかし、禅の最も核心を突く質問をしてしまったのである。

     暑いとか赤いとか感じているものが私である。私は、私以外の全てを感じることが出来る。しかし、感じている私自身を感じることは出来ない。「我思う故に我あり。」であるが、その「我」は感じ取ることの出来ないものである。五世紀において、既にデカルトの思想を遥かに凌駕している。肉体が私なのではない。私がここに存在していると言う感じが私なのではない。対象として感じることの出来るものは私ではない。私は精神的な存在であり、その存在は感じることが出来ない。

     禅は、自分は物質ではなく、精神的な存在であり、物質がどの様になろうと、その物質の変化を私は感じるだけであり、精神的な私が変化する訳ではないことを悟るものである。物質の変化は私が感じるだけであり、感じなくすれば精神的な私にとって何の意味も無くなる。「心頭滅却すれば火もまた涼し。」をその境地とする。

     そう言う意味で、感じることの出来る一切は空である。この世である物質世界で起こることは、その流れに従い生きて行けば良い。例えそれが逆流となり、我が肉体を滅ぼす様なことになろうとも、精神である私には何ら影響を与えるものではない。従って、そんなに苦しみに重きを置かず、苦しみを苦しみ精神を病む様な事はせず、普通に自己を防衛し戦い、病院に行き治療をし、死が避けられない時が来たならばそれを受け入れるべきである。これを「空」及び「中庸」の思想と言う。

    武帝の勘違い

     武帝は、いきなりこの禅の核心を突いてしまった。達磨は、この問いに「私には、精神的な私を感じることは出来ないので、私が誰であるのか分かる方法は無い。」と真正面から真剣に答えたのである。

     武帝には、「貴方は誰ですか。」と聞いたのに、「そんな事は、貴方の知ったことではない。」と無礼に答えたものと誤解した。後に、武帝は達磨の真意が分かり後悔したのである。

    だるまの起き上がる仕組み

    だるまの仕組み

     私の宗教観の原点である「だるま」は、何故起き上がるのか考えて見た。しかし、奥が深くないのでこれ位にしておく。

    七転び八起き

     このだるまは「七転び八起き」を象徴し、どんな困難に会おうとも挫けず立ち上がる姿を体現している。七回転んだ場合、七回しか起き上がれないことに気が付いたのは、小学校低学年の頃であろうか。