• CATBIRD日記 (物理・数学・歴史・哲学・宗教の未解決問題を扱ってます)
  • 弁証法は論理学なのか

    弁証法とは

     弁証法とは、あることとあることが対立矛盾する場合に、その対立矛盾を止揚する形でより高位の状態に移行する運動を指す。

    万物の万物に対する戦い

     物質は、元々「万物の万物に対する戦い」をしている。粒子はお互いに衝突し合う。しかし、その有する引力により複数の粒子が結合し、より大きくより複雑な引力と斥力を発する様になる。そして、その引力と斥力により、結合離反する相手が限定されて来る。この様にして、原子や分子が形成される。全ての粒子が他の全ての粒子に対して衝突する状態が解消され、粒子は結合し共同して他の粒子に対して引力と斥力を及ぼす様になる。この様な形で、原子や分子の内部において、衝突は止揚されている。粒子と粒子との衝突は止揚され、原子や分子が生じる。

     分子と分子は、お互いに化学反応を及ぼし合う。他の分子を分解しようとする。この様に、全ての分子は、他の全ての分子に対して対立する。しかし、分子と分子は、化学反応により結合し生物の体を形作る。この生物の体の内部では、分子同士は有機的に結合し、それぞれが体を維持する為の機能を担い、共同して働いている。生物の体の内部では、分子同士は協働し、対立は止揚されている。分子と分子との分解し合う状態は、肉体に止揚される。

     生物は他の生物を食べ、又は自己の体の維持の為に利用しようとする。餌として食べ、奴隷として使おうとする。この意味で、生物の利害は対立しており、全ての生物は全ての生物と戦っている。
     人は、自己の肉体の維持に必要な物を効率的に生産する為に、人の集合体を形成する。その集合体の内部では分業が行われ、お互いに協力し合って物を生産し、交換により生活をしている。人と人とは、憎しみが止揚され友情や法律が生じる。
     男性と女性は自己の物的形態を後世に残すために、結婚し家庭を作る。その家庭では役割分担が行われ、家庭を維持する為に働き、家事育児をお互いに協力してする。男性と女性とは、憎しみが止揚され愛が生じる。

     人の集団と集団とは、略奪・戦争等をし合い、お互いに対立し合っている。しかし、貿易を自由化し、それぞれの国と地域が自己の得意分野で生産をし貿易をすることでより、より効率的に物を生産し合う。その中では、略奪・戦争は止揚されて、国際分業が進んで行く。人の集団と集団とは、略奪・戦争が止揚され貿易が生じる。

     この様に分業の進んだ人の集団の内部では、生産手段を所有する資本家と労働力を提供する労働者に分かれる。資本家は、労働者を働かせ利潤が最も多くなる様に賃金を低く抑えようとする。労働者は低賃金に喘ぐ。この対立を止揚する為に、生産手段を資本家の手から離し、全体の共有とする共産主義と言う制度が考案された。
     しかし、この壮大な試みは失敗に終わった。この制度は、働きたい者が働きたいだけ働き、生活物資を必要なだけ受け取ることを目的とする。しかし、この目的は生産手段が高度に発達しなければ実現出来ない。全自動の工場で、衣食住に必要な一切のものを、全自動で幾らでも生産出来るのであれば、この試みは成功する。人は、芸術や研究の分野で働きたいだけ働き、そして全自動の工場から無尽蔵に生産されるものを、必要なだけ受け取ることが出来る。

     しかし、その様な全自動の工場を作るには、後五百年は掛かりそうである。人が精一杯働いても、全ての人が欲しいだけ受け取ることは出来ない現在の生産手段では、生産物を平等に配分するしかない。そうなると、幾ら働いても受け取る分量は同じとなり、働く意欲がなくなってしまい、ますます生産量は低下する。
     この様な現状では、生産手段を私有にして、良いものをより安く生産した者が、より多くの生産物を受け取れる制度でないと、生産物の質と量は向上しない。

     また、資本主義の国と不十分な生産手段で共産主義を目指した国とでは、生産物は資本主義の国の方が質量共に優れており、共産主義を目指した国家は、資本主義国家に敗北してしまう。マルクスレーニン主義は、五百年程早く世に出てしまったと思える。

     この様に、物質は対立を止揚して協働する方向へ向かう。しかし、共同している存在内部において、対立は常に潜在している。物質の協働には、必ず元になった対立と不利益が存在する。その様に協働しているのは、どの様な対立や不利益を無くする為なのかを理解しないと、現実に協働している形態を理解することは出来ない。

    人間の悟性

     人の悟性は、因果関係を把握する。現象と言う結果の起こった原因を理解する。外界は、非常にたくさんの因果関係が複雑に絡み合い、万物は流転している。人は複数の因果関係を使い、その結果をシュミレーションする。想定した因果関係を使っても、現実に起こっている現象が導かれなかった場合、使用した因果関係同士は矛盾している。矛盾せず、現実に起こっている結果が導かれる様に、因果関係を変更し、再度シュミレーションする。そして、現実に起こっている現象通りの結果が得られれば矛盾は解消される。

     この様に、人が外界を認識する際、矛盾が生じればその矛盾を解消するより高い認識に移行して行く。精神は、矛盾を止揚し正しい認識に向かって動いて行く。

    弁証法の意義

     弁証法は、この物的対立を解消する物質の運動と、精神的矛盾を解消する精神の運動とを混同するものである。この二つを一緒にすることに、何か意義はあるのであろうか。大変疑問である。
     物質世界も精神世界も似たようなルールが支配しており、不思議である。人は、理解不能であるが故に、神秘的なものに強く憧れる性向がある。理解出来なくても、「神」や「時間と空間の変化」に憧れる。