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精神世界の探求  有木巨智麿


私は誰か 瞑想 無知の知 夢 美 占い イデア 笑い 悟り 神


 私は誰なのでしょうか。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。
 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。

 そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。

 赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。 では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。

 この様に、心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。従って、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。物質ではないものを感じている私も物質ではありません。

 私の感じている世界は、私が心の中に作り出したものです。心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。
 例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。
 部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。

 テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。
 もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。
 同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。



 この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。
 ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。
 科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。

 私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。
 死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。
 生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。

 この様に脳と言う物質は、精神である私に刺激を送ります。そうして初めて心が生じ、私は感じることが出来ます。脳と言う物質が刺激を送らなければ、精神である私は何も感じることは出来ません。感じている全体が心です。心は物質と精神のコラボレーションです。物質がなくても、精神がなくても、感じている心は生じません。

 ただ、1秒前にこの私の脳が刺激を送っていた精神が、今の私の精神である保証は何処にもありません。精神である私に記憶が蓄えられるのであれば、1秒前の精神と今の精神である私とは同一であることが分かります。しかし、記憶は脳に物質の構造として蓄えられます。脳に蓄えられた1秒前の精神が感じた記憶を、今の精神である私が感じているのです。こう言う意味で、私とは、「今現在のこの一瞬のこの心」です。次の瞬間には私ではなくなっているかも知れません。ですから、この刹那を精一杯生きなければならないのです。

瞑想


 瞑想とは何でしょうか。瞑想とは、起きていて夢を見ることです。起きているので、その夢を自分の意思でコントロールすることが出来ます。夢は、自分の意思とは関係なく進んで行きます。しかし、瞑想では、望む人に出会い、会話を楽しみ、望むものに触ることが出来ます。その感じは、起きている時と何ら変わりありません。また、記憶する機能も働いているので、瞑想を止めてもその事を記憶しています。
 ではどの様にしたら、起きていて夢を見ることが出来るのでしょうか。それには、先ず座ることです。横に寝てしまっては、本当に寝てしまうからです。そして、ほんの少しだけ目を開けます。僅かで構いません。眠ってしまうのを防ぐだけで良いのです。

 そして、臍の下10cm位の所を軽く意識します。思考している時、意識は上の方にあります。何かを考えて、意識を脳の位置に持ってくると、瞑想の状態には入れません。何も考えず、全てを捨て去ります。すると、意識は、次第に下に降りて来ます。

 悩みも欲も何かをしなければならないと言う意識も、全て捨て去ります。自分自身も捨てて下さい。何も要りません。何もしません。自分もいりません。瞑想に入らなければならないと考えてもいけません。何かを感じようとしてもいけません。すると、次第に眠くなって来ます。それを、僅かに目を開いて、ただ本当に寝てしまわない様にするだけで良いのです。

 そうしていると、後ろの頭頂部の辺りで、音が響いてきます。その音は、瞑想の都度異なります。私の場合は、ピアノの音であったり、お経の声であったりすることが多い様です。その音に耳を澄ませます。それは、次第に大きくはっきりとした音になってきます。

 すると、今度は、額の中央の辺りで、ひっきりなしに動き回っているものを感じます。大きさは一円玉位です。ウニの様に、何本もの黒い枝が伸びたり縮んだり様々な方向へ向いたりと、不規則に激しく動いています。その動きを妨げてはいけません。思考すると、その枝を操作することとなり、動きを止めてしまいます。それは、動きを止められると消えてしまいます。

 その動き回るものは、全てになります。言わば世界の種です。それに頼り切って下さい。思考することは「自力本願」です。思考を止めて、私の全てをその動き回るものに委ねます。この世界の種に頼り切ることを、「他力本願」と言います。

 その動き回るものに私を預け切っていると、それは次第に大きくなって行きます。その黒い枝の1本1本は、家や木や池や石などあらゆる存在にせわしなく絶えず変化しながら、絶えず動き回る様になります。そして、どんどん大きくなって行きます。

 すると突然、広々とした空間が開けます。今までせわしなく変化していた存在の中に、私が入り込んでしまっています。私は、一瞬にしてそれに吸い込まれました。せわしなく動き回っていた1本1本の黒い枝は、実際にその空間の中で家になり、車になり、木になり、池となっています。そして、無秩序に動き回っていたその存在は、車として規則正しく動き、木の葉として秩序通りにそよぐ様になります。私がドアを開けると、ドアは動きます。私の行動に合わせて因果関係通りに、それは動く様になります。今まで、後頭部で鳴り響いていた音は、風の音や人の声となっています。これが瞑想状態です。

 この世界は現実の世界ではないと言う意識はまだあります。しかし、現実の世界と全く変わりません。起きていて、広い周りを見渡している時と全く同じ状態です。風が吹くと髪がゆれ涼しく感じます。車の音も聞こえます。振動も感じます。すがすがしい空気を、深呼吸することも出来ます。 会いたかった人に会うことも出来ます。その人の肌は、ぷよぷよとした感覚があり毛穴まで見えます。話もします。

 私は、自由自在にその世界で思考し、活動することが出来ます。この世界は私そのものです。この木も家も宝石も人も、私の欲しいものは既に私のものです。私は、こんなにすばらしい世界を所有しているのです。

 この「動き回るうに」の様な存在を「チャクラ」と言います。「チャクラ」の中に私が入り込んでしまうことを、チャクラが開くと表現します。

無知の知


 私の感じている世界は、私が心の中に作り出した世界です。決して、心の外にある世界を直接に感じている訳ではありません。私の心の外に、実際に世界が広がっているか否か、私には知る術はありません。

 そうなると、私にとって、疑い得ない自明なことは一体何でしょうか。地球が本当にあるのでしょうか。私の妻や子は本当に居るのでしょうか。私の手は本当にあるのでしょうか。この様に疑い得るものを、本当に自明であるか否か疑うことを、方法的懐疑と言います。

 その結果、デカルトは、疑うことの出来ない自明のことを1つだけ発見しました。「我思う故に我あり。」です。疑っている自分の存在だけは疑い得ないことに気が付きました。それ以外のことは、本当なのかどうなのか人間には分からないのです。

 この様に、分からないことを分らないとすることが、「無知の知」です。しかし、自明のことしか信じないのであれば、それまでです。私の心は1+1=2に制約されています。心の中では、ものは消えたり生じたりします。従って、1+1=1でも、1+1=3でも構いません。しかし、物質は無から生じたり、消え去ったりすることはありません。従って、外界は1+1=2です。私の心が1+1=2であるのは、私の心の中の世界が外界に似せて作られているからです。外界に1+1=3を適用すると、誤った行動となり失敗します。私の心が1+1=2に制約されていること自体、外界の存在を示唆しています。私は外界の存在を信じ、それを支配する法則を研究します。

 この様に、「無知の知」とは、方法的懐疑の過程を経ず、物事を盲目的に信じることを戒める言葉でもあります。

 寝ている間に、色々な夢を見た様に思いますが殆ど憶えていません。しかし、その夢の中で感覚の赴くままに自由自在に、しかもかなり集中して行動していた様に思えます。哺乳類は夢を見ます。爬虫類は夢を見ている事実は確認されてはいません。何故、人は夢を見るのでしょうか。
 眠っている間には、起きている間に蓄えた短期記憶を長期記憶に置き換え、様々な情報処理を行っています。短期記憶はすぐに思い出せるが、その容量が限られているので多くは記憶出来ません。長期記憶は思い出すのに時間が掛かるが、その容量は多く人は一生分を全て記憶しているとも言われています。
 夢は、その情報処理の際に生じるノイズであるとする説もあります。しかし、ノイズであるならば、断片的な記憶が意識の上に現れるだけです。夢はむちゃくちゃではあるがストーリーがあり、その中で私は現実世界では起こりえない程、自由自在に行動しています。時には空を飛び、水面すれすれに滑走しながら上昇し木をかすめて飛びます。起きている時には、上手く説得出来なかった人とも話しをしています。実に様々なことをその人と話しています。時には、その人を激怒させてしまう様なことも言ってしまいます。しかし、それは夢なので実害はありません。

 この様に、夢の中では実に様々なシミュレーションを行っています。現実世界で体験出来ることは限定されているが、夢の中ではその限定に縛られずシミュレーションを行っています。そして、原因に対する結果、即ち自分がこう行動したらどうなるか、相手を激怒させるか等を試しています。この様に、現実世界で起こった未解決問題が夢の主題となっていることが多いのです。

 現実世界で起こるのは、因果関係の一例のみです。様々な状況で様々な因果関係をシミュレーションし、全体を把握してから長期記憶としてしまうのです。これにより、様々な状況における対応行動を、夢の中で練習することが出来ます。夢の中で練習をしているので、現実には経験していない場面に遭遇しても、とっさに適切な行動が取れるのです。

 この様にして、哺乳類は経験したことの無い場面にも対応する能力を持っているのです。爬虫類も短期記憶を長期記憶に置き換える必要はあるので、ノイズであるとすると夢を見ることになります。しかし、爬虫類は脳波を調べても夢を見ている証拠はありません。爬虫類は、夢により経験したことのない場面をシミュレーション出来ないので、複雑な状況には対応することが出来ないのです。

 哺乳類は、パイロットがシミュレーション装置で飛行訓練をする様に、体験していない状況を夢でシミュレーションして安全に練習する能力を、進化により獲得したのです。様々な状況をシミュレーションするので、実際に夢の中で問題を解決することもあるのです。

 私達は、人の顔立ちやスタイルの美しさ、競走馬や犬の美しさ、青く霞んだ山々や南国の澄み切った青い海の美しさ等、様々な対象に美を感じます。しかし、美の基準は一体何でしょうか。
 参考になる事例があります。犯罪者の顔の特徴を導く試みがありました。犯罪者特有の顔を割り出し、その顔を持つ者が、罪を犯す前に矯正し、或は用心をしようと言うのです。そこで、様々な犯罪者の眼・鼻・口の大きさや間隔等、顔の寸法のデータを集積し、その平均値を使って顔を描いて見ました。
 すると、男女共にすばらしく美しい顔となったのです。つまり、美しい顔とは、全ての寸法が平均値である顔だったのです。しかし、寸法が平均の顔とは、どう言う顔なのでしょうか。
 眼の大きさや間隔は、最も機能的で環境に適したものが望ましいのです。鼻や口の大きさもそうです。その最も機能的に優れた寸法から、各自少しずつ外れているので、顔に個性が出るのです。最も機能的な寸法は環境には適しますが、それでは各自の見分けが付かなくなります。また、ある程度寸法に幅がある集団の方が、環境変化に適応し易いのです。

 眼が大きい方にずれる人と、小さいほうにずれる人とが出て来ます。従って、平均すると、最も機能的な寸法となります。人は、自らが置かれている環境に最も適した寸法の顔に、美を感じるのです。そして、その最も環境に適した寸法の顔の人と結婚して、子孫を残そうとします。そうすることで、その集団は、環境に最も適した寸法を平均値において維持することが出来ます。逆に、環境に適さない寸法の顔の人を好んで、その人と結婚して子孫を残そうとすると、どんどん環境に合わない寸法の顔となってしまい、その集団は弱くなります。

 体のスタイルも同様です。足の長さ、尻やウエストの引き締まり具合、長く真っ直ぐな指等に、美を感じます。獲物を追いかける為には、速く走れなければなりません。足が長くヒップも引き締まっていなければ、速く走ることは出来ません。槍を投げるには、腰を速く回転させなければなりません。ウエストが太いと速く回転させることは出来ず、遠くまで槍を投げる事は出来ません。石器や土器等、様々な生活用品を作るのに、指が重要となります。長く真っ直ぐに伸びた、繊細な作業の出来る器用な指に美を感じます。

 この様に、人は最も機能的なサイズの体に美を感じるのです。
 競走馬は、速く走る馬を交配して、より速く走る馬を作り出しています。より速く走れる機能を持った馬の体に美を感じます。しかし、爬虫類の場合はどうでしょうか。機能的な体を持った爬虫類に美を感じますか。蛇やトカゲやワニに美を感じますか。私は醜しか感じません。人が、まだねずみの様な生き物であった時、蛇やトカゲに捕まえられ食べられていました。爬虫類は哺乳類の一番の敵であり、忌み嫌っていました。従って、爬虫類から遠ざかる為に、醜を感じるのです。犬に美を感じるのは、犬は太古から人類の友人であり、犬に近づく為に美を感じるのです。

 青く霞んだ山々や、青く澄んだ海に美を感じるのは、その豊かな自然のある場所に止まる為です。砂漠に美を感じ、そこに止まろうとすると、その集団は自滅してしまう可能性があります。豊かな自然のある場所に憧れ、その場所を求める集団の方が、生き延びる可能性が高いのです。

 この様に、人類にとって、望ましい自然・望ましい動物・望ましい人体のサイズに美を感じ、人はそれに引き寄せられるのです。この美をフィクションの中で表現することが芸術です。美は、置かれている環境に最も適した対象に感じます。しかし、上記の様に、環境変化に対応する為には、ある程度個人差が必要となります。置かれている環境が変化した時、変化後の環境に適した対象に美を感じる人が生存には有利であり、人類は生き残る可能性が増すからです。従って、芸術には主観的な優劣があるのです。当然、客観的な優劣も上記の通りあります。

占い

 先日、神社にお参りして、おみくじを引きました。この世に、心配事の種は尽きません。ついつい、おみくじがあると引いてしまいます。注意すべきことが書いてあると、気を付ける様にします。朝、星座占いを見ることがあります。内容が良ければ、すぐに忘れることしています。要注意事項を言われると、なるべく憶えておく様にします。

 占いの内容が正しいか否かにかかわらず、一日1つは何かに気を付ける様にすることは、良い習慣です。例え、それが些細なことであっても、一年間実行すると、365個の項目に注意することが出来ます。そうしていると、無意識の内に様々なことに注意する様になります。

 よく、占いは非科学的であると言う人が居ます。本当に占いは非合理的態度なのでしょうか。
 世の中は、科学で解明出来ることのみではありません。コインの表が出るか裏が出るか、科学では分りません。両方とも、出る確率は50%です。しかし、表が出れば私は勝ち大金を手にします。裏が出れば負け大金を失います。私にして見れば、分らないでは済まされません。何としても、勝たなければなりません。その時、勝つにはどの様な方法があるでしょうか。

 人に、コインの表が出るか裏が出るかを当てさせて見ます。100回すると、100回当たった人から0回当たった人、つまり全く当たらなかった人に分かれます。100回とも当たった人は、運の良い人と言われます。全く当たらなかった人は、ある意味では運の良い人です。その人が言うことと反対のことをすれば良いからです。

 これからコインの勝負をする場合、私なら100回当たった人の意見を聞きその通りに掛けるか、全く当たらなかった人の意見を聞き反対の方に掛けます。

 科学で、勝負に勝つ方法が導けるなら決断は要りません。数式で方法を導き、その通りに実行すれば良いからです。しかし、勝負には必ず、科学で分析出来る部分と全く分らない部分とがあります。科学で分る部分を無視し、占いに頼るのは愚かです。しかし、科学では分らないとしか答えが出せない部分では、運を頼ってどちらかに決断するしかありません。
 運の良い人の意見に従うのは、合理的態度であると言わざるを得ません。

イデア

 イデアとは、概念です。馬や犬、富士山の様な美しい山等、物的なイデアもあれば、国家や善と言った観念的なイデアもあります。
 一々対象を調べて、その正しい操作方法を確認した上で行動するのは無駄です。犬は近づくと攻撃して来るか、それとも尻尾を振って来るか。餌をやると懐くか。一人で寂しいとき、一緒にいて慰めてくれるか。それらを、一々実験し確認してから、犬を飼うのでは時間が掛ります。犬は人に懐き、主人に忠誠であると言うイメージに、犬を飼い友として暮らすと言う行動様式が結合すると、犬と言う概念とります。
 概念が成立すると、一々、犬とはどういう存在で、それに対してどう行動したら良いのかを確かめなくても、正しい行動が取れるようになります。

 プラトンが追求した、国家のイデアも同様です。人の集団は、どの様な形態を取るのが正しいのかを実験し、確かめてから国家を形成するのでは、何時までたっても作ることは出来ません。正しい集団の形態のイメージに、そこでの決定に従うと言う行動様式が結合し、国家と言うイデアが成立します。これで人は、一々考えなくてもイデア=概念により、国家を形成することが出来る様になります。

 人は、イデアを生まれながらに漠然とした形で持っています。赤ちゃんは、真っ白な状態で生まれてき、あらゆる記憶は生まれてからの経験により獲得するとする考え方があります。しかし、何処を探しても、怪物や鬼は居ません。それでは、怪物・鬼と言ったイメージは、単なる妄想に過ぎないのでしょうか。  恐竜が我が物顔で地上をのし歩いていた時、人はねずみの様な生き物でした。ねずみにとって恐竜は、怪物以外の何者でもありません。人がある程度進化し、小さなサルであった時、巨体の雑食の類人猿を見ると、それは鬼です。ねずみは恐竜を怪物として恐れ、小さなサルは巨体の雑食の類人猿を鬼として恐れるのは当然です。

 怪物とか鬼とかと言うと、非科学的であると言う人も大勢います。しかし、過去には実際に存在していたのです。怪物や鬼のイデアは、遺伝子に刻み込まれた記憶です。現在は絶滅し存在していないだけなのです。犬や鳥と言ったイデアと同じものです。決して非科学的なものではありません。イデアは漠然とした形で遺伝子の中に記憶されています。生後の経験により、それが具体的な概念となるのです。これを遺伝子の中の記憶を想起すると表現しても良いでしょう。

 プラトンは、天上界に居る時に持っていたイデアの記憶を生まれた後経験を通じて思い出すと説きました。これを想起説と言います。遺伝子や進化論の考え方の無かった時代では、遺伝子の中の記憶をこの様に表現するしか方法がなかったのでしょう。
 イデアは遺伝子の中にあり、遺伝子が脳と言う物質を構築する際、その中に物質構造としての記憶を再現します。記憶を蓄えた脳と言う物質が、精神である私に刺激を送り、心が生じます。その心が、経験と前述の遺伝子に蓄えられた記憶とにより、イデアを心の中に作り上げるのです。
 イデアとは、心の中のソフトウェアと言えるでしょう。

笑い


 笑う動物は、人間とゴリラの子供のみです。ゴリラも大人になると笑わなくなります。何故、人は笑うのでしょうか。
 友人から悩みを相談されたとします。これに対して、その人に同情し何とかしてやろうと言う気持ちが自然に沸き起こります。しかし、それは解決する必要のない悩みであったとします。もう、同情する必要も、何とかしてやろうとする気持ちも必要ありません。その気持ちは、友人の悩みを解決する行動を導くものですが、行動する必要がないからです。
 しかし、一旦沸き起こった気持ちを、消し去らなければなりません。どうしたら、その気持ちを、瞬時に消し去ることが出来るでしょうか。
 例えば、次の様な場面です。

 友人「僕には、暗い過去があるんだ。」
 私「そうか。・・・(真剣になる)」
 友人「実は、僕のおじいさんは、相撲取りなんだ!」
 私「・・・(笑う)」

 また、友人が、してはならない振る舞いをしたとします。これに対して報復をしておかないと、その行為は何度も繰り返されます。従って、怒りの感情が起こります。
 しかし、その友人は悪意のない勘違いにより、その行為をしてしまったとします。それが分かったのなら、もう報復する必要はありません。例えば、この様な場面です。

  郵便貯金ホールでコンサートがあり、皆で待ち合わせをしていたが、友人の1人が来なかった。翌日
 私「何故、昨日来なかったの。せっかく皆で待ち合わせていたのに。」
 友人「そこの郵便局の前で待っていたのに、コンサートなんてなかったよ。」
 私「・・・(笑う)」

 今度は、尊敬の感情の沸き起こった場合を例にしてみます。
 ボクサーと女性アナウンサーが、一緒にジョギングをしながら、インタビューをしている。
 女性アナウンサー「○○さん、初恋は何時ですか。」
 ボクサー「・・・・・(黙ったまま走りながら考え続ける。)」
 女性アナウンサー「・・・(初恋は何時だったか、真剣に考えているんだ。適当に答えても良いのに、見掛けによらず真面目な人なんだ。)」
 ボクサー(急に甲高い声を出して)「初恋って好きな人のこと?」
 女性アナウンサー「・・・そうですよ。(早く言えよ・・・)。」
 ボクサー「好きな人っていっぱいいるからなー。昔もあるし、最近もあるし・・・。」
 女性アナウンサー (聞いてはいけないことを聞いてしまった!すぐに話題を変える。)
 この場合、初恋について真剣に考えていると勘違いし、尊敬の念が沸いたが、それは勘違いであり解消する必要があるので、その感情を笑いに変えて消し去っているのです。

 最初の例は、哀の感情、二番目の例は、怒の感情です。他にも勘違いによるぬか喜びであった場合、喜の感情を消し去る為に、それを笑いのエネルギーに変えてしまいます。
 友人「昨日のテストで、○が一つしかなかったよ。」
 私「でも、一つでもあって良かったじゃないか。苦手にしていた科目だろ。」
 友人「点数のところに○が一つあったんだ。」
 私「・・・(笑う)」

 人間の社会は複雑で、場面に適した感情が起こるとは限りません。必要のない喜怒哀楽や真善美の感情が沸き起こった時、それを瞬時に消し去る為に、笑いのスイッチが入るのです。時間を掛けて理論的にその気持ちを解消すると、その間に不合理な行動に出る可能性が残るからです。

 一度沸き起こった喜怒哀楽の感情が解消されるので、気分が良くなります。これは、イメージでわざと笑っても同じく感情が解消されるので、同じ現象が起ります。

悟り

 悟るとは、何を悟ることなのでしょうか。悟ると、全ての苦しみから逃れることが出来ます。人間には、どうしても逃れることの出来ない苦しみが三つあります。一つ目は病の苦しみ、二つ目は老いの苦しみ、三つ目は死の苦しみです。
 これらの苦しみから逃れるには、宇宙の仕組み全てを悟ることが必要でしょうか。宇宙の仕組みの全てを解明すれば、人間は病を治し、老いることを止め、不死の肉体を手に入れることが出来ます。不慮の事故を、避けることも出来ます。
 しかし、今の私たちが生きている間には、到底解明することは出来ません。
 では、どうすれば、苦しみから逃れることが出来るのでしょうか。病・老い・死の苦しみは、自分は肉体であると考えることから起ります。肉体は必ず病気になり、老いて、死にます。苦しみから逃れる為には、人体の仕組み全てを解明しなければなりません。

 しかし、人体を構成する物質は3年に1度の割合で入れ替わります。私が肉体なのであれば、3年後の私は今の私ではないこととなります。
 花を見て赤いとか、やかんに触れて熱いとか感じているのが私です。本当の私は、言わば鏡の様な感受性です。
 私は、肉体が送る信号を受け取り、世界や感覚・感情・思考を感じます。これが心です。心は物質と精神とのコラボレーションです。その感受性は、肉体が死んでも何ら変わらず存在し続けます。この宇宙の始まりから終りまで、何ら変わらずに存在し続けます。

 生まれる前と死んだ後を比べても、何ら違いを見出すことは出来ません。人は、生まれる前の状態から生まれて来ました。死んだ後の状態からまた生まれることは、何ら不思議なことではありません。人間の脳より遥かに優れた脳が、私である感受性に信号を送るようになると、今よりも遥かに豊かな世界が心に広がります。そういう意味で、私は無限です。限界はありません。

 この様に、私は感受性と言う精神であり、肉体が病に罹り老い死んでも、何ら変わらず存在し続けます。生まれることも滅っすることも無く、清らかになることも穢れることも無く、増えることも減ることもありません。
 肉体は生まれ変わり続け、この宇宙が終わるまで私は存在し続けます。般若心経では、不生不滅・不垢不浄・不増不減と言います。
 この様に考えれば、自分は老いることも無く、病にかかることも無く、死ぬこともありません。愛する人と別れることもありません。又お互いに生まれ出会うからです。

 私の感じている宇宙は、私の心が作り出したものです。私の心の中の小さな私が、私なのではありません。心全体が私なのです。私の敵も、私の心の一部です。だから愛することが出来るのです。
 欲しい物は既に貴方のものです。何故ならば、欲しいものは貴方の心が作り出した貴方の一部なのですから。 これが悟りの内容です。 私の欲しいものは既に全て私のものです。ですから、これ以上何も欲しがらないのです。諦めとは、欲しいのにそれを諦めることです。


 この宇宙は、物質のみで構成されている訳ではありません。もし、私たち人間が物質のみから出来ているとしたら、ロボットと同じ存在であるはずです。科学が発達し精巧なロボットが出来ると、そのロボットは世間話をし、またやかんに触れれば熱いと言うでしょう。しかし、ロボットはそう言っているだけで実は何も感じてはいないのです。

 これに比べて、人間はやかんに触れれば、実際に熱いと言う感じが生じます。そして、その熱いと言う感じは、物質ではありません。幾ら顕微鏡で脳の中を覗いて見ても、熱いと言う感じを見る事は出来ません。確かに、物質が熱いに対応した動きをしていることでしょう。しかし、それは熱いと言う感じそのものではありません。

 脳と言う物質の熱いに対応した動きが刺激となり、私が熱いと感じているのです。熱いと言う感じは物質ではありません。従って、それを感じている私は物質ではないのです。私は、無限の感受性である精神です。
 心は、物質と精神のコラボレーションです。物質がなければ、何の刺激も受けないので精神は何も感じません。また、物質のみでは何も感じることが出来ません。

 では、一秒前に私の脳が刺激を送っていた精神は、今の私である精神でしょうか。その保証は何処にもありません。精神に記憶が蓄えられるのであれば、一秒前に私の脳が刺激を送っていた精神と、今の私の精神とは同じか違うかが分かるでしょう。しかし、記憶は脳と言う物質に構造として蓄えられます。

 脳と言う物質が移動する度に、異なる精神に刺激を送っているかも知れません。一秒前に他の精神が感じた記憶を脳と言う物質に蓄え、今の私の精神に記憶と言う刺激を送っているだけでしょう。そうなると、この宇宙には、精神が満ちていることになります。若し、精神のない空間があるのであれば、人がその空間に移った時、何も感じなくなります。しかし、その様なことは起こりません。

 精神は宇宙に一つあり、全宇宙に満ちています。人は移動する度に、その精神の異なる部分に刺激を送ります。ですから、私は私と言う特定の存在ではないのです。他人も私も同じです。ですから、汝の敵を愛することが出来るのです。

 物質の全体を宇宙と呼びます。精神の全体を何と呼んだら良いでしょうか。私達は皆、至高な精神の一部分なのです。
 また、精神は物質を動かすことが出来るのです。物理学では、物質を動かす力は、重力・電磁力・強い力・弱い力の4つの力であるとします。しかし、実際には、私と言う精神は手と言う物質を動かすことが出来ます。
 そして、この社会は、精神の意思により動いています。この様に、社会の動きを物質のみで説明することは出来ないのです。

 また、この宇宙の始まりを物質のみで説明することは出来ません。物質の因果関係は、原因が結果を生じ、その結果がまた原因となり結果を生じると言う形となります。宇宙の始まりは、原因なくして結果が生じなければなりません。つまり、無から有が生じなければならないのです。
 しかし、物質は無からは生じません。これに比べて、感じは生じたり消えたりします。精神は原因から自由です。従って、宇宙の始まりにおいて、最初に動いたのは自由な精神でしかあり得ません。宇宙を創造した精神を何と呼ぶべきでしょうか。

 私は、その至高な精神がどの様にこの宇宙を作ったのかを探求しています。もし、物質の因果関係のみでは説明出来ないことが残されたら、それは神の存在を証明したことになります。


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