生物と無生物の区別

 質問者さん、私も含めて理系の人は、この世には物質しかないと考えがちです。ですから、生物と無生物の区別も物質面でしか考えることが出来ないのです。

 しかし、この宇宙には、物質が存在しているだけではありません。例えば、私は物質でしょうか。若し、私がこの肉体と言う物質であったならどうでしょう。
 肉体を構成する物質は、約3年に1回入れ替わります。では、3年前の私は、今の私ではないのでしょうか。また、3年後の私は今の私ではないのでしょうか。
 私の肉体を構成する物質は、少しずつ入れ替わって行きます。では、将来の何時の時点で、今の私ではなくなるのでしょうか。私とは、今の肉体を構成している物質の内のどれなのでしょうか。
 3年後に今の肉体を構成している物質をかき集めて、私が元の通りに組み立てたら、一体どちらが私なのでしょうか。
 この様に、私は物質であると考えると、どの物質か特定することは出来なくなります。どの物質も、摂取され私の肉体を構成する可能性があり、又同時に私の肉体から排出される可能性があります。こうなると、私とは、全宇宙であり、かつ全宇宙ではないと言う矛盾に陥ります。

 私は、痛いとか痒いと言う感覚に動かされて、体を摩ったり掻いたりします。この痛いとか痒いと言った感覚は物質でしょうか。脳の中を顕微鏡で覗くと、痛いや痒いと言った感覚自体を見ることが出来るのでしょうか。
 デカルトは、物質の特性として、高さ幅奥行きを有する点を上げています。従って、痛いとか痒いと言った感覚自体は、物質ではありません。物質ではないものを、脳と言う陽子と中性子の周りを電子がくるくると回っている存在が感じているのでしょうか。
 物質でないものは、物質でないものでしか感じることは出来ません。私は、脳と言う物質が、痛いとか痒いに相当する動きをしたので、その刺激を受けて痛いとか痒いと感じているのです。こう言う意味で、私は「無限の感受性」です。

 痛いとか痒いと言う感覚が原因となり、物質である肉体は摩るとか掻くと言う動きをします。従って、物質を動かす力は、重力・電磁気力・強い力・弱い力の4つのみではありません。精神もまた物質を動かすことが分かります。
 これに対して、次のような反論があります。痛いと言う脳内の物質の動きから、直接物質の因果関係により、手が痛いところを摩ったのだ。脳と言う物質が痛いと動いたから、精神がその影響により痛いと感じたそれだけである。痛いと言う精神が、脳と言う物質を動かし、手が動いたのではないと主張される方が居ます。

 ですが、物質の因果関係のみで肉体を適切に動かせるなら、精神が何かを感じる必要はないのです。
 しかし、物質の動きのみで痛いと痒いを区別するのは大変困難で微妙です。痛いと摩らなければなりません、また痒いと掻かなければなりません。両者の区別を誤ると、誤った行動となります。
 一方、精神上の痛いと痒いは全く別ものであり、両者を間違えようがありません。そして、精神の感じは大変複雑です。物質の因果関係のみでこれらを区分すると、誤る可能性が大です。従って、区別を誤らず正しい行動が取れるように、物質は進化の過程で、精神を利用する様になったのです。

 もし、人間が物質のみで出来ているとしたら、それはロボットと同じです。ロボットは、痛いとか痒いと言って体を摩ったり掻いたりしますが、本当は何も感じてはいないのです。ロボットの様に、物質の因果関係のみで適切な対応を取れるのであれば、人間が何かを感じる必要はないのです。

 以上の様に、精神は物質を動かしています。物質の全体を宇宙と呼びます。精神の全体を何と呼んだら良いでしょうか。私たちは、精神の全体の一部が肉体と結合して生まれました。死ぬとその一部は精神の全体に戻ります。
 従って、回答は「物質と精神が結合したものが生物であり、物質のみで構成されているものが無生物である。」です。

 質問者さん、理系の学校では、物質の因果関係しか教えないから、精神について一度も考えることがないのです。この点は反省しなければなりません。一生、この世には物質しかないと考えて終わることは、大変勿体ないことです。これでは、人生の意味も目的も何も見出すことは出来ません。私達はただ、物質の因果関係で動いているだけであり、死んだら全て終わりです。