プラトンの理想国家

プラトン

 プラトンは師ソクラテスの影響を強く受けています。ソクラテスの正義は「魂の善さ」です。地位・名誉・財産もそれ自体が善いものであるとは認めませんでした。それに「魂の善さ」が伴って初めて、善いものと看做したのです。
 逆に嘘も相手のためを思った「魂の善さ」の伴ったものであれば善いものであると考えました。国家を維持する為に作られた(=「魂の善さ」を伴った)法律であれば「悪法も法なり」で善いものであると考えました。その為に、ソクラテスはその「悪法」により宣告された死刑を受け入れます。

 プラトンは、師ソクラテスの言う「魂」を詳しく分析します。そして「魂」を理性・気概・欲望の3つの部分に分けます。これは、頭・心・お腹に当たります。これを「魂の三分説」と言います。それらは、本来全ての人間に備わっています。それを教育で磨いたとき、理性は知恵と言う徳に、気概は勇気と言う徳に、欲望は節制と言う徳になります。
 しかし、それだけでは不十分です。知恵を悪いことに使えば「悪知恵」になります。勇気もよく考えないと「無謀」となります。節制も過ぎると「ケチ」となります。知恵・勇気・節制を正義のために使った時に初めて徳は完成すると考えました。これがプラトンの「知恵・勇気・節制・正義」と言う四元徳説です。
 プラトンは、ソクラテスの命を奪った「悪法」に「正義」を認めず、法律の整備(=正義)の必要性を求めました。そこで、プラトンは、正義を知っている「哲学者」が国家を引っ張って行く政治を理想としました。

 この様に、プラトンは「魂」を考察します。そして、魂はかつて神々と供にあった時の記憶であるイデアを思い出すと考えます。
 以下は私のオリジナルです。
 イデアとは、概念です。馬や犬、富士山の様な美しい山等、物的なイデアもあれば、国家や善と言った観念的なイデアもあります。
 一々対象を調べて、その正しい操作方法を確認した上で行動するのは無駄です。犬は近づくと攻撃して来るか、それとも尻尾を振って来るか。餌をやると懐くか。一人で寂しいとき、一緒にいて慰めてくれるか。それらを、一々実験し確認してから、犬を飼うのでは時間が掛ります。犬は人に懐き、主人に忠誠であると言うイメージに、犬を飼い友として暮らすと言う行動様式が結合すると、犬と言う概念とります。
 概念が成立すると、一々、犬とはどういう存在で、それに対してどう行動したら良いのかを確かめなくても、正しい行動が取れるようになります。

 プラトンが追求した、国家のイデアも同様です。人の集団は、どの様な形態を取るのが正しいのかを実験し、確かめてから国家を形成するのでは、何時までたっても作ることは出来ません。正しい集団の形態のイメージに、そこでの決定に従うと言う行動様式が結合し、国家と言うイデアが成立します。これで人は、一々考えなくてもイデア=概念により、国家を形成することが出来る様になります。

 人は、イデアを生まれながらに漠然とした形で持っています。赤ちゃんは、真っ白な状態で生まれてき、あらゆる記憶は生まれてからの経験により獲得するとする考え方があります。しかし、何処を探しても、怪物や鬼は居ません。それでは、怪物・鬼と言ったイメージは、単なる妄想に過ぎないのでしょうか。

 恐竜が我が物顔で地上をのし歩いていた時、人はねずみの様な生き物でした。ねずみにとって恐竜は、怪物以外の何者でもありません。人がある程度進化し、小さなサルであった時、巨体の雑食の類人猿を見ると、それは鬼です。ねずみは恐竜を怪物として恐れ、小さなサルは巨体の雑食の類人猿を鬼として恐れるのは当然です。

 怪物とか鬼とかと言うと、非科学的であると言う人も大勢います。しかし、過去には実際に存在していたのです。怪物や鬼のイデアは、遺伝子に刻み込まれた記憶です。現在は絶滅し存在していないだけなのです。犬や鳥と言ったイデアと同じものです。決して非科学的なものではありません。イデアは漠然とした形で遺伝子の中に記憶されています。生後の経験により、それが具体的な概念となるのです。これを遺伝子の中の記憶を想起すると表現しても良いでしょう。

 イデアは遺伝子の中にあり、遺伝子が脳と言う物質を構築する際、その中に物質構造としての記憶を再現します。記憶を蓄えた脳と言う物質が、精神である私に刺激を送り、心が生じます。その心が、経験と前述の遺伝子に蓄えられた記憶とにより、イデアを心の中に作り上げるのです。この様に、イデアとは、心の中のソフトウェアと言えるでしょう。

 どの様な集団を作れば他の集団に勝ち生き残れるかと言う心のソフトウエアを、人間は進化の過程で獲得したのです。そのソフトウエアとは「正義」のイデアです。正義に基づいてあらゆることが決定される国家が「理想国家」です。