• CATBIRD日記 (物理・数学・歴史・哲学・宗教の未解決問題を扱ってます)
  • 無神論は科学的か

    唯物論

     神を持ち出すと、非科学的だと単純に批判する人がよく居る。自然科学に対する教養が比較的高い人に多い。その人達は、この宇宙は、物質のみで説明されると信じている。精神は、存在しないと考えている。

    宇宙の始まり

     物質の因果関係は、原因が結果を生じ、その結果が原因となりまた結果を生じると言う形式となる。宇宙の始まりは、原因なくして結果を生じなければならない。つまり、無から有が生じなければならない。従って、物質の因果関係では、宇宙の始まりを説明することが出来ない。そこには、原因から開放された自由な意思が必要となる。宇宙の始まりに、精神が動いた可能性はある。

     宇宙の始まりの瞬間には、超ひもや時間及び空間は、無から生じなければならない。しかし、私には、それらを無から作る方法は全く見当も付かない。物質は、分子→原子→素粒子→超ひもと、より単純な反応をする存在により説明される。しかし、物質の源を追求すればするほど、そこにはより精巧な存在が現れる。超ひもは、高度に計算しつくされて作られた存在の様に感じる。偶然に湧いて出たとはとても思えない。時間や空間も簡素で美しい。これらの存在自体が、神秘である。

    物質を動かす力

     また、物理学では、物質を動かすのは、重力・電磁力・強い力・弱い力の4つであると説明される。しかし、現実にはそれだけではない。私と言う精神は、手と言う物質を動かすことが出来る。つまり、精神も物質を動かしている。
     では、精神とは一体何であろうか。熱いとか赤いとか感じている実体が、私であり精神である。原子の周りを電子が回っている脳と言う物質が、熱いとか赤いとか感じている訳ではない。幾ら電子顕微鏡が発達したとしても、熱いとか赤いと言った感じを見ることは出来ない。触ることも出来ない。物質であれば、科学が発達すれば、何時かは見ることが出来る。しかし、それは出来ない。それらは、物質ではないからである。

     物質でないものを感じている私は、物質ではない。脳と言う物質が、精神である私に信号を送り、その信号を受けて、私は熱いとか赤いとかを感じているのである。それは丁度、テレビを見ている様なものである。テレビを見ているのが私である。テレビが私なのではない。脳が私なのではなく、脳の送る刺激を受けて熱いとか赤いと感じているのが私である。
     しかし、幾ら探しても、私自身を感じることは出来ない。あらゆる感じは、私以外に対する感じである。私自身は、心と言う鏡に映ることはない。私自身は、物質ではないことは分かるが、では一体何なのかは不可知である。

    精神の存在

     若し、精神が無いのであれば、熱いとか赤いといった感じもないこととなる。将来科学が発達し、精巧なロボットが出来るだろう。そのロボットは、やかんに触ると熱いと言い、信号を見ると赤だから止まれと言うだろう。しかし、そのロボットは、私が感じている熱いとか赤いと言った感じを、感じている訳ではない。ただ、熱いとか赤いと言っているだけである。私は、実際に熱いとか赤いと感じている。従って、この世に精神は存在している。

    私は何故私なのか

     私が私であることも不思議である。この宇宙に精神はたくさんある。しかし、私は唯1つしかない。何故、私は私であり他人ではないのか。
     右脳と左脳とが脳梁で結ばれており、2つの脳の意識は一つである。この様に、他人の脳と自分の脳とを神経線維で結べば、他人と意識が一つになるだろう。全ての脳を結べば、意識はただ一つとなる。
     人とは、穴から外を覗いている様なものだ。私と言う穴があり、中の精神がそこから外を覗いている。すると、それは私となる。他人と言う穴があり、そこから覗くと他人となる。私と他人の違いは、私と言う穴から宇宙を覗いているか、他人と言う穴から宇宙を覗いているかの違いである。私と言う穴から入った感じと、他人と言う穴から入った感じは、精神内部で連絡することは出来ない。従って、私は私であり、他人とは決定的に異なると思える。
     全ての脳を神経線維で結んで、穴を一つにまとめれば、精神は唯一つとなる。これで、中に居る精神は一つであることが分かる。精神が異なるのであれば、幾ら脳を繋げても、それぞれ別々の意識がある筈だからである。
     しかし、覗いている精神自体を感じることは出来ない。その覗いている唯一の精神は、一体何と定義されるだろうか。

    コインゲーム

     また、立てたコインが倒れ、表が出るか裏が出るかを、科学で解明することは出来ない。表が出る確率は50%、裏が出る確率も50%としか言えない。この様に、均衡を保った状態から、ほんの僅かに均衡が崩れそれがどんどん大きくなり、最後には決定的に異なる結果が生じることは、現実の世界では常に起こっている。均衡を保った状態に、僅かな力を加えて均衡を崩す存在は何であろうか。現在の科学では、これら肝心な点は全く分からない。

    科学的精神

     ユダヤ教やキリスト教では、神が宇宙を創造したと信じる。物がここに落ちたのは、ここに落ちるように、神が宇宙を設計したからであると考える。そこで、どの様に設計されているのか研究し、落下の法則を発見した。
     この様に、科学は神の確信を基礎として発達した。この宇宙の仕組みを探求し、物質のみでは説明出来ないことが残された時、神の存在が証明される。しかし、現在の科学では、まだ分からないことだらけである。

     それなのに、その努力の結果発見された各種の法則のみを頭に詰め込み、その精神を受け継がない人々が、その法則の中に神が入っていないので、神は存在しないと考えている。その人達は、上記の疑問について、どの様な答えに辿り着いたのであろうか。それとも、全く考えたことがないのであろうか。